パチンコ回顧録

 

  


パチンコ回顧録 高田馬場浪人時代(1)

 私が初めてパチンコ店に入ったのは、高田馬場で浪人していた時だった。当時、高田馬場駅近くには、

宇宙会館、国際会館、アサヒ会館などがあった。その頃のパチンコは、まだ羽根物もなく、全くの平台だ

けで、店の片隅には、まだ手打ち式のパチンコ台が残っている店もあった。ほとんどの台が、天穴に入

れることが1番のポイントで、そこに入った玉が役物によって振り分けられて、それによってチューリップ

の開く数が決まっていた。

 換金率は2円〜2.5円で、定量が2,000個〜3,000個の店が多かった。定量になれば打ち止めで

「まいった」とか「ノックアウト」などと書かれた打ち止めの札が入れられた。500円分玉を買うのも、もった

いなく、200円ずつ玉を買って打っていた。予算は、3,000円くらいだったと思うが、昔はそれでもけっこ

う遊べた。熱くなって5,000円以上負けたりすれば、真っ青になって帰り、自己嫌悪におちいっていた。

 もちろん店に置いてあった箱も今と違った。1番小さいのが500個くらい入った箱。次が、800個くらい

入った箱。これらは今でも、小物を入れたり、灰皿の掃除などをする時に使っている店もある。1番大きな

箱は、形が店によって違ったりしたが、3,000個くらい入る箱もあり、ドル箱と言われた。(今のドル箱よ

りも大きく、$の字が書かれたものもあった。)普通、打ち止めにならないと使わないもので、憧れの存在

だった。800個の箱が一杯になれば、十分満足し、お菓子などの景品と交換して帰ることが多かった。

 兄がいたせいで、実家には、パチンコ台(手打ち式)や、パチンコの本(牛次郎とか田山さん)があり、基

本的な釘の見方は理解していた。自分なりに勝つための方法も、少しは考えた。

 

高田馬場浪人時代(2)

 当時は、手打ち式と電動式が混在していた時代。パチプロといえば、釘を見極め、電動式をも凌ぐ正確さ

で銀玉を打ち出す職人であった。私も、手打ち式の方を好んで打っていたが、しだいにそれも姿を消してい

った。今以上に釘読みが大切だったが、打ち止めになるような台を、はっきりと見極めることなど至難の技

であった。勝つために、(当たり前のものが多いが)次のような作戦を実行していた。

1.タバコの吸殻が多い台を狙う

2.新台入替狙い

3.開放台狙い

4.スランプの周期をつかむ

 1については、デジパチでは通用しないが、昔はかなり参考になった。もちろん、1つの銘柄が多く残って

いる台だが、やはり釘をチェックして甘く見えなければ打たなかった。

 2についてだが、当時の新台入替は、今とは全然違い、数ヶ月に1度くらいのもので、開店時間も12時と

か、夕方が多かった。新台はたいがい出したし、4日間くらいは甘いことが多かった。浪人生のぶんざいだ

ったので、並んだことはそんなにはなかったが・・・

 3については、1度打ち止めになった台を打てるのだから、かなり有力だった。しかし、開放台でも、さっぱ

り出ない台があった。打ち止め台といっても、2時間くらいで打ち止めされた台もあれば、半日くらいかかっ

てなった台もある。早めに打ち止めされた台ならいいだろうと、1度チェックしてから開放台を狙ったり、何回

も打ち止めになった台を狙ったりもしたが、どうしても出ないことがあり謎だった。また、開放台ばかり狙った

りしていると、当然ながら店から嫌がられた。

 4についてだが、平台には、出る時・出ない時・小康状態といった波が、確かに存在していた。上皿・下皿

が一杯になる頃に、600個くらいの玉が補給されたのだが、しばらくすると出なくなることが多かった。打ち

止めになるような台は、持ち玉が残っているうちにまた調子がよくなり、(本当に玉が吸い込まれるような感

じで入るようになり、出なくなると玉が暴れて入らなくなった。)それが何回も繰り返されるような感じだった。

 遊び台といわれた台の中にも、この周期がはっきりとしていたものがあり、出始めれば上皿・下皿が一杯

にはなるのだが、それがほとんどなくなった頃に、また出始めるものがあった。その周期を見ていて、出そ

な時を狙って打っていたこともあった。しかし、これはすべての店には通用しなかったし、そのタイミングで台

が空くことなど、そんなにはなかった。

 トータルでみれば、なんとか負けないようには打っていたと思う。打ち止めして、腕時計や電卓と交換して、

かなり嬉しかったことを覚えている。当時は、腕時計や電卓など簡単には買える物ではなかった。

 

 

高田馬場浪人時代(3)

 この頃、よく見たパチンコ台のメーカーは、西陣、平和、三共、マルホンなど。オール13タイプが多く、オ

ール11タイプは、あまり打つ気がしなかった。チューリップと、簡単な役物がついただけの台がほとんどで

あったが、しだいに、役物にいろいろな仕掛けを取り入れたり、台そのものも斬新な工夫をした物が登場し

てきた。

 印象に残っているのは、西陣のテレパチ。CR機の液晶画面に当たる場所に、白黒テレビを取り付けたも

ので、イヤホンで聴くようになっていた。しかし、これは役物がないので打っていて面白くはなかった。パチ

屋によっては、各台の上にカラーテレビを設置した店もあったので、テレパチそのものに存在意味がなかっ

たりした。

 もう一つは、平和の逆転パチンコ。これは、普通のパチンコ台の入賞口に当たる部分がすべてハズレ穴

になっていて、普通なら1番下のアウト玉になってしまう所までたどり着けば、玉が払い戻されるという逆転

の発想の台だった。ゲージ構成は、ほとんどがハズレ穴に入るようになっていたので、弱めに打ってもダメ

だった。これも、話題をさらったが、一度打てば飽きてしまうような感じの台だった。

 当時は、インベーダーゲームが大流行していた。大人までもが夢中になり、ゲームセンターや、これを置

いてあった喫茶店は満員であかないこともあった。パチ屋はだいぶお客をとられていた。このような状況の

中でパチンコメーカーは、ゲームに負けない機種の開発に全力を注いでいた。数年後には、羽根物やデジ

パチが登場することになる。

 

 

西千葉時代(1) ちんどん屋が来た新装開店

 浪人は、何とか1年ですみ、西千葉で生活するようになった。当時、駅の近くにヒルトンホールというパチ

屋があった。名前負けしている店で、設置台数は120台ほどの小さな店だった。手打ち式が多く残っていた

ので、最初は、この店によく通った。店長は、一目でハングル系とわかる人だった。

 このパチ屋は、新装開店の時に、必ずちんどん屋が来ていた。ちんどん屋といっても、若い人は見たこと

がないかもしれない。派手に厚化粧をした人が、体を動かしながら、太鼓などの楽器を演奏して、人を呼び

込んでいた。だいたい3人来ていたが、年は50才以上だったと思う。並びながら、ちんどん屋を見るのが楽

しみだった。

 昔の新台入替は、今のように月に何回もやるのではなく、数ヶ月に1度くらいのものだった。新装開店とも

言われた。開店時間も、平常のことはなく、12時とか、午後3時、あるいは夕方の5時か6時だった。入場

の方法も、人数を区切って入れたりせず、いっせいに入れるところがほとんどだった。並ぶ人数は、今よりず

っと少なかった。

 ちんどん屋を呼んでいたパチ屋は、他には見たことがなかったが、数ヶ月に1度の新装開店は、どの店で

もお祭りみたいなものだった。新台はもちろん、他の台も甘いことが多く、勝っても数千円だったが、十分並

ぶ価値はあった。

 

 

西千葉時代(2) ミナトホール

 西千葉駅近くには、もう一軒、ミナトホールという店があって、ヒルトンと比べればこちらの方が断然大きな

店だった。最初は古い感じのする店だったが、そのうちに改装をやり、たいそう立派になった。途中から、こち

らをメインにするようになった。3,000個定量で、2.3か2.5円交換だったかと思う。

 改装をしてから、朝イチに激甘釘の台を10分間だけ打てる抽選をやるようになった。もちろん、全くの平

台だが、とにかく反則と思えるくらい天やサイド、落としの釘をひん曲げてあった。入りっぱなしで、10分間

で千発以上出たと思う。当たりくじは、5本くらいだったが、けっこう打つことが出来たので、朝、講義がない

日には、毎日のように通った。

 この頃、好きだった台は、チューリップが中央に、縦3つ並んでいた台。仲間同士では、「タテ3つ」と呼ん

でいたが、正式には、「3連チュー」とかいう名前らしい。天穴から入賞すると3つ全部が開いた。上から順番

に入ってしまうと、最短3回で全部閉じてしまうが、下から順に入れば、最高で7回入賞できた。もちろん、弱

めに打てば、下の方から入りやすかったので、小技が利いた。

 このミナトホールは、途中から釘に異常にメリハリをつけてきてくれたのだった。

 

西千葉時代(3) バカ台

 あんな極端な釘調整をする店は、他には見たことがなかった。ミナトホールでは、毎日ではなかったが、

一時期、釘を極端に曲げた台が数台出現した。調整するのは、1箇所だけのことが多く、天穴の右を大き

く曲げたり、ぶっこみだけを、すごく広げたり、左サイドの三角釘の頂点を上にひん曲げたりしてあった。曲

げる角度は、垂直に対して45度以上のこともあった。店長は、遊び心があったようで、時には、右サイド

だけ曲げてあった台もあった。そんな台は、右打ちして打ち止めしたものだ。

 このような台を、仲間うちではバカ台と呼んでいた。誰が見ても、明らかに出るとわかる調整であったが、

バカ台狙いで朝並ぶ人は限られていて、競争相手はそんなに多くはなかった。おじちゃんもいたが、台を

見つけるスピードで負けるはずはなかった。バカ台には、普通の優秀台にも起こるようなスランプもなく、

1時間半くらいで打ち止め(3,000個定量)できた。

 そんなバカ台を一番多く打ったのは、多分、私だったと思う。大学の講義は、自分で時間を組めたので

午後の講義を受けるようにしたりして、平日でも3〜4日は、朝並んでいた。朝一番に打ち止めするのは、

私のことが多かった。

 1台定量すれば、約6,000円の儲けだった。抽選台の開放もあったし、月間トータルで負けることはな

かった。月に5万円〜10万円以上儲けることができた。バカ台は、2年くらいは続いたと記憶している。

 仕送りをしてもらっている身だったが、儲けたお金で、栄町を遊び歩いたり、競馬で1レース10万円の勝

負をしたこともあった。しかし、貯金もきちんとしていた。パチンコで貯めたお金で、卒業してからすぐに、キ

ャッシュで新車を買えた。


西千葉時代(4) 中央大学法学部出身のK氏

 パチンコ屋に通っていれば、常連と顔なじみになり、朝並んでいる時などに話をするようになる。バカ台争

いでも、喧嘩みたいになることはなかった。同じ大学の人とはもちろんだが、おじちゃん達とも仲良くなり、打

ち止めした後、午後からは麻雀をすることもあった。おじちゃんの中には、指がない人もいたが、そんな人と、

リャンピン(千点200円)で打ったこともあった。

 常連の中に、中央大学の法学部卒と言うK氏がいた。車は、赤のフェラーリに乗っていた。中大法科を卒業

した人が、パチンコ屋でぶらぶらしているわけはないと、当時は信じていなかった。私が、競馬をするようにな

ったのは、実をいえば、K氏のせいだった。ある日、パチンコを打っていたら、競馬新聞を見せて、「いいレース

があるから一緒に行かないか?」と誘われ、船橋競馬場に行った。競馬場に行ったのは、この時が初めてだ

った。K氏と一緒にそれから何回か競馬場に行ったのだが、競馬について、いろいろと教えてもらった。

 K氏は、パチンコがかなり上手で、釘を見る目も正確だった。印象に残っているのは、店の台の釘は、ほと

んど覚えているから、天やサイドの釘を写真で撮って見せられても、それが何番台なのか当てられると豪語

していた。

 そんなK氏が、何年かのちに、弁護士になっているということを知った。昼間ぶらぶらしながらも、司法試験

の勉強をしていたことがわかった。中央大学法学部出身ということも本当だったようだ。